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船場模型のひみつ

(2020.5.21更新)

当館常設展示場内9階の「船場の町並み再現模型」の情景設定の秘密を紹介します。いつもは見逃してしまう模型たちのストーリーをお楽しみください。

船場模型
船場の町並み再現模型全体(1/20スケール)
千草屋はんの猫
千草屋はんの猫
この猫は、内北浜通と淀屋橋筋との角に店を構える、大坂でも屈指の両替商・千草屋宗十郎(ちくさやそうじゅうろう)家の飼い猫で、いまふうにいえば生粋の「セレブ猫」。お昼寝する姿もとても優雅でしょ? 模型の中では裏長屋の屋根の上で眠っていますので見つけにきてくださいね。
銭さし売り
銭さし売り
幕末の百科事典『守貞謾稿』(もりさだまんこう)によれば、京坂の銭さし売りは所司代邸や城代邸などの中間(ちゅうげん)の内職だったとのこと。10本を一把(いちわ)にして6文程度で商家に「押し売り」をしたといいます。確かに何ともふてぶてしい顔つきです。
大坂の荷車
大坂の荷車
大坂の荷車を「ベカ車」と呼びます。船場の町並み再現模型のベカ車は『街之噂』(ちまたのうわさ)を参照して製作されました。じつはベカ車には2種あって、大型のベカ車は2人以上で押し曳きして進むタイプ、小型のベカ車は長く伸びた棒を押して進むタイプで、一人で取り回すことができました。
大坂と江戸、荷車の違い
大坂と江戸、荷車の違い
大坂のベカ車は曳く者、押す者ともに掛け声などかけず「至って心妙(=神妙)な」様子であるというのが面白く、これに対して江戸の代八車(=大八車)の車力は「オウタカホウ、ソコタカエイー」と掛け声をかけていた、といいます。荷車の構造にも違いがありますね。
米を搗く
米を搗く
搗米屋(つきごめや)が淀屋橋筋で踏み臼の横木に傘をくくりつけて直射日光を避けながら作業をしています。大坂の搗米屋は、商いに必要な道具一式を持ち歩いて、依頼のあった家の前で米を搗いたのだといいます。船場の町並み再現模型の搗米屋は『街之噂』を参照して製作されました。
江戸の搗米屋
江戸の搗米屋
大坂の搗米屋に対して、江戸の搗米屋は餅を搗くのと同じ臼と杵を用いて「すこぶる勢いよく」搗いたらしく、『街之噂』の解説には力がなくてはつとまらない、と断りがあるほどです。それに対して、大坂の搗米屋は、道具さえ運んでしまえば煙管で煙草を吸う余裕がありました。
左官
左官
左官(さかん、しゃかん)は、日本家屋の壁や床、塀などに、土や漆喰(しっくい)を塗る専門職です。日本の家や蔵などの建造物は、定期的なメンテナンスが必要とされることから、船場の町並み模型のなかでも、左官は大活躍しています。
廻り髪結い
廻り髪結い
船場の町並み再現模型には廻り髪結いが登場しています。彼は得意先へ向かう途中、淀屋橋筋と内北浜通のかどで巡礼に御堂の場所を教えていますが、時間に遅れているのでしょうか、小僧さんに探されているようですよ。
廻り髪結いの持ち物
廻り髪結いの持ち物
『街之噂』によれば、廻り髪結いが持ち歩く道具は大坂と江戸で異なっていたといいます。大坂の廻り髪結いが携えていたには「台箱」と呼ばれる道具箱。対して江戸では「鬢盥(びんだらい)」という道具箱が使われました。
廻り髪結いの顔
廻り髪結いの顔
船場の町並み再現模型に設置された廻り髪結いは、こちらに背を向けてしまっていますが、じつはなかなかの男前なのです。もとにしたのは当館所蔵の松川半山筆「雲煙過眼帖」に登場する廻り髪結いでした。
少年と亀とネコ
少年と亀とネコ
船場の町並み再現模型の9匹のネコのうち、このネコは目の前にいる亀に興味津々な様子。この亀の飼い主は井戸に向かって歩いている少年で、彼はたらいに入れて飼っている亀の水を替えるために、亀を短めに切った竹の上に置いて逃げられないようにしたのですが…。
大坂の放生亀
大坂の放生亀
放生亀(あるいは「放ち亀」「放し亀」)は8月の盂蘭盆(うらぼん)の頃に行われる放生会で放たれる亀のこと。『街之噂』にも江戸と大坂の放生亀の扱い方の違いが収録されていて、置き方の違いがわかります。それにしても問題なのは、ネコの眼前の亀。ネコが興味を持って竹筒を倒したら…!?
北前船の船頭の着衣(1)
北前船の船頭の着衣(1)
北前船は大坂と蝦夷地(現在の北海道)を往復した交易船で、物資はもとよりさまざまな文化も運んだことで知られます。写真は当館蔵の「浪花百景 川口雑喉場つきじ」の一部分。黄色い着物を着た人物が北前船の船頭で、着衣はアイヌの人々の民族衣装であるアットゥシです。
北前船の船頭の着衣
北前船の船頭の着衣(2)
北前船の船頭が着用しているアットゥシは、のちに大阪の服飾文化にも影響を与えています。大阪では袢纏のような紺地の表着を「厚司」と呼びますが、それはアットゥシから生まれた言葉なのです。
鼠取り薬売り(1)
鼠取り薬売(1)
大坂の町にはたくさんのネズミが住み着いていました。時には病気を運んでしまうためネズミを捕りたい人々はネコを飼ったともいいますが、それだけでは捕りきれないので鼠取り薬が売られました。
鼠取り薬売り(2)
鼠取り薬売(2)
『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によれば、鼠取り薬売(ねずみとりくすりうり)は「石見銀山鼠取薬」と書かれた小幟(木綿一幅、長五尺)を持ち、町を回って薬を売り歩いたといいます。
鼠取り薬売り(3)
鼠取り薬売(3)
鼠取り薬売の呼び声は、京や大坂では「猫いらず、鼠とりぐすり」云々、というものだったといいますが、江戸の呼び声は、もとは同じであったものがのちに「いたずらものは居ないかな?」に変わったといいます。
懐徳堂
懐徳堂
懐徳堂(かいとくどう)は、江戸時代に大坂の有力商人らが出資・設立した学問所です。明治初年には閉校されたものの大正時代に再建されました。しかし再建された懐徳堂も太平洋戦争で罹災し、戦後、罹災を免れた蔵書は大阪大学が継承しています。
懐徳堂門前の犬(1)
懐徳堂門前の犬(1)
じつは船場の町並み再現模型の懐徳堂の門前には犬が寝ています。この犬は江戸時代後期の儒学者で書家だった篠崎小竹(1781~1851)の愛犬で、小竹没後に懐徳堂で養われています。
懐徳堂門前の犬(2)
懐徳堂門前の犬(2)
篠崎小竹遺愛の犬を発注したところ、模型会社さんから、どのくらいの大きさの犬がどんな風に寝ているのか、その写真がほしい、という無理難題が出ました。そこで渡したのがこの写真。模型製作担当者の愛犬でした。
御寮人さんご一行(1)
御寮人(ごりょん)さん ご一行(1)
内北浜通りを東に向かう、天川屋(あまかわや)の御寮人(ごりょん)さんご一行。娘と供(とも)を連れての外出です。行く先で、福澤諭吉がちょっとしたもめ事を起こしているとも知らずに。
御寮人さんご一行(2)
御寮人(ごりょん)さん ご一行(2)
御寮人(ごりょん)さんご一行は、当館所蔵「浪華勝概帖(なにわしょうがいちょう)」収載の田中秋亭(たなかしゅうてい)画「難波女」(なにわめ)をもとに作成しました。

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