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百済人の末裔が残したもの~細工谷遺跡の墨書土器を中心に~

(2025.4.2更新)

令和7年(2025)4月2日(水)~6月30日(月)(予定)

下記の資料の展示を開始しました。この機会にぜひご覧ください。

朝鮮三国のひとつである百済は、古代の日本(倭)と親密な関係にあり、例えば、仏教文化を伝えたことでもよく知られています。しかし、660年に唐・新羅の総攻撃を受けて滅亡し、再起をかけた663年の白村江の戦いでも敗れ、朝鮮半島での再興の道は絶たれました。多くの百済人が日本列島各地に亡命し、664年には百済王族の善光が難波に土地を与えられ、亡命王族の拠点となりました。それが細工谷遺跡(天王寺区)のあたりと推定されています。691年には王族に「百済くだらのこにきし」という氏が与えられ、この辺りは「百済郡」となり、滅亡後も「百済」の名前は残ることとなりました。
 細工谷遺跡の発掘調査では百済を示す「百」と書かれた墨書土器が多数出土しているとともに、「尼寺」と書かれたものも複数点出土しています。これは百済人の末裔がこの地に尼寺を建てたことを示しています。これらの墨書土器や尼寺に関わる出土資料を展示するとともに、故地である百済の遺跡の写真展示も行います。この機会にぜひご覧ください。

(寺井)

大阪市指定文化財
土師器杯 墨書「百尼」と「尼寺」
(細工谷遺跡出土、大阪市教育委員会蔵)
土師器杯 墨書「百尼」と「尼寺」
左には「百尼」、右には「尼寺」という字が土師器杯の底部に墨で書かれています。細工谷遺跡のあたりに「百済尼寺」があったことの証です。
赤色顔料が付着した無文軒平瓦
(細工谷遺跡出土、大阪市教育委員会蔵)
赤色顔料が付着した無文軒平瓦
屋根の前面(軒先)に葺いた瓦で、凸面(葺くときは下側になる)に赤色顔料が線状に付着しています。赤く飾られた建物があったことを示しています。

フロア / 10階 コーナー /難波京の風景
10階フロアマップ