佐賀藩大坂蔵屋敷絵図
元禄5年(1692)
日本生命保険相互会社蔵
米切手
文化10年(1813)
大阪歴史博物館蔵
諸大名は領地から運んだ年貢米を大坂の蔵屋敷に持ち込み、入札によって米を取引しました。落札した商人に渡された証券が米切手であり、切手に記された藩の蔵屋敷で米と交換することができました。この米切手が米市場で盛んに売買されました。
鍋島
江戸時代中期頃(17世紀末~18世紀前葉) 佐賀藩蔵屋敷跡(北区)
大阪市教育委員会蔵
「鍋島」は、江戸時代に佐賀藩の藩主である鍋島家によって作成された特別な磁器です。将軍家への献上を主な目的とし、利益を度外視して作られた最高水準の磁器でした。一般市場には出回らず、発掘調査で見つかることは稀ですが、佐賀藩蔵屋敷跡の発掘調査では総数354点もの鍋島が出土しました。特に盛期の作品は、原料となる陶石、成形・焼成に至るまでこだわり抜かれています。出土品の多くは、蔵屋敷が大火の被害を受けた際に捨てられたものであり、表面の細かな傷痕から実用されていた可能性が高いと考えられています。
角筆
江戸時代後期(19世紀中葉) 中之島蔵屋敷跡(北区)
大阪市教育委員会蔵
角筆は墨を使わず筆圧だけで文字を書く筆記具です。高松藩蔵屋敷跡から見つかった角筆は牛馬骨製で全長15.3cm(写真前)、15.9cm(写真奥)のものであり、毛筆を精巧に模しています。角筆で記した文字は紙を光に透かさないと見えないため、秘密の記録に使われました。一例として、明治2年に高松城内で起こった抗争の際、旧高松藩士が角筆のみで記した獄中記が残されています。
泡盛の瓶
江戸時代中・後期(18世紀後半~19世紀前半) 中之島蔵屋敷跡(北区)
大阪市教育委員会蔵
焼締陶器の瓶は、琉球の壺屋焼と呼ばれる焼物で、泡盛と呼ばれるお酒の容器として使われました。江戸時代、島津氏を通して、泡盛は献上品として主に江戸へ運ばれ、大坂へは御礼参りとして大坂城代と大坂船奉行へ1~2壺が献上されていました。出土品は鳥取藩蔵屋敷跡や高松藩蔵屋敷跡などから見つかったもので、薩摩藩からの贈り物であったかもしれません。はるばる琉球から運ばれてきたお酒として、または腹の病や刀傷に効く薬として泡盛は珍重されていたようです。
化学陶磁器
明治時代前半(19世紀後葉) 中之島蔵屋敷跡(北区)
大阪市教育委員会蔵
江戸時代に蔵屋敷が集中した中之島は、水運による物資運搬に適していました。このため明治時代前半になると、中之島には様々な工場が建てられました。津山藩蔵屋敷のあった敷地では、強酸性の硫酸を保存した硫酸瓶をはじめ、薬品容器や実験に使う化学陶磁器が見つかりました。これらは造幣局などで生産した硫酸を原料としてソーダ製品や晒粉、肥料などを製造する化学工場で使われたとみられ、大阪の近代産業の幕開けを示す貴重な資料です。
佐賀藩(鍋島家)蔵屋敷は現在の大阪高等・地方・簡易裁判所の場所にありました。敷地は約4,200坪に及び最大規模の蔵屋敷のひとつです。絵図には堂島川に面した船入が描かれ、中心に御殿、南側に水色で彩色された米蔵が並んでおり、米の入札と米切手発行を行う会所も示されています。船入の石垣は平成2年(1990)に発見され、大阪における蔵屋敷発掘調査のさきがけとなりました。